非日常と日常とあらし

前記事にも書いたけれど、わたしはエンターテイメントが好きだ。そして、あらしが好きだ。ついでにいうと、しょうくんが好きだ。





わたしがなぜエンターテイメントを求めるのか。それは、人間が本能的に非日常を求めることと直結していると思うんです*1。つまり、わたしがエンターテイメントに求めるものは非日常なのね。で、さいきんのあらしに対してなにがもやもやするって、もはやあらしは非日常じゃなくなっているということです。震災のことなども含めて国に関するお仕事を任されることが増えているけれど、それはわたしたちの「日常」に関するお仕事であって。誤解を恐れず、極端に言えば、わたしはアイドルに政治など求めていないということです。もちろん、あらしが震災復興の呼びかけをすることでたくさんの人々が動くのは事実だし、それが事実ならするに越したことはと思うし、いまのあらしの立ち位置を考えるとするべきだとも思う。ただ、わたしはアイドルが歌って踊るのを見て国のことを思い出したりはしたくない。震災のことはもちろんこれからしばらくみんなが抱えて生きていかなくちゃいけないことだし、忘れてはいけない事実だけど、だからこそ、そういう日常のこと(震災に限らずね)を一時的に忘れるためにあるのがエンターテイメントだとわたしは思っています。それがまあ、国のお仕事へのもやもやだったり、beautiful worldというコンセプトにひっかかったり、しょうくんのキャスター業を全肯定できなかったり、っていうことの一つの理由なのかなあと。

でね。非日常の世界に身を置くあらしが、私たちと同じ日常に生きているってことにわたしはぐっとくるわけです。絶対に手の届かないテレビの中やステージの上であらしはいつも笑っているけれど、5人が私たちと同じ人間で、私たちと同じように今を生きていている限り、嬉しいこともあれば悲しいこともあるんだよね。人ごみにのまれて言いようのない寂しさを感じたり、帰り道に月を見てきれいだなあってぼんやり思ったり、毎日を過ごす中で何を選べばいいのか迷うことだってあるでしょう。あらしが日常の世界を歌っている歌をよく好きだなあ、と思うのも納得する。最近で言うとoverとかね、ほんと名曲だよね。

でねでね。非日常の世界に身を置きながらも、私たちと同じ日常に生きているってことをいちばん感じる人が、わたしにとっての櫻井翔なのかなと思うわけです。進学校に通って、大学にも行って、御学友と毎晩のように飲んで、夢はなくて、あらしじゃなければきっとサラリーマンでもやってんじゃないの、なんて言ってしまう人が、いまここでライトを浴びている。そんなしょうくんだからこそ、わたしにとって特別なの。また一つ、わたしがしょう担である理由がはっきりしました。もうね、「わたしいっつもあいばくんかっこいい、ってそればっかり言ってるのになんでしょう担なんだろう?」とか言ったりしてるけどね、わたしがなんでしょう担なのかって、そんなの言葉にしなくたってもう分かってるんだ、ほんとはね。はい、おわり。

*1:非日常を求める矛先は人それぞれだと思うけど、わたしはそれがアイドルでありあらしだった