忘れられない先生はいますか?


ブラックボード、3夜すべて見ました。



嵐の櫻井翔が、戦争に関連した作品に出ること。これは絶対に意味がある。実際に、わたしはもしこの作品にしょうくんが出ていなければ、「戦争モノは苦手だから」という理由だけで敬遠して、「学校に行きたいなんて思わなければ良かった」と涙を流す戦争孤児のことを知らないままだったのは確かだから。ドラマを見て、「歴史を知りなさい」というしょうくんの先生の言葉を思い出した。わたしはもっと、歴史を知るべきだと思ったよ。わたしは戦争を知らない。だから、戦争そのものだったり戦争があった時代そのものに焦点がいってしまって、そのどの瞬間にも人の心が存在したんだってことを忘れそうになる。戦争によってたくさんの人が死んだということは、誰かの手によって他の誰かを殺したことに他ならない。それを時代のせいにするのは簡単だけど、その人にとって自分が人間を殺したという事実は消えることなんてなくて。わたしから見ると、こんなことが現実に起こっていたなんて信じられないのだけど、でも確かにあのときそんな現実を抱えながら人々は生きていた。「時代」に傷つけられて、「時代」を憎んで、だからこそ「人」を傷つけて、「人」を憎んだ。それでも懸命に前を向いて生きてくれた人たちがいるから、未来という今がある。わたしも今の時代にため息をつきたくなるときだってあるけれど、たぶんどの時代もみんなそれぞれの時代と闘いながら生きてきたんだなあって。だから、わたしもまだまだへこたれてはいられない。
母に抱きしめられながら泣くシーン、あんなふうに細い身体から搾り出すように泣くしょうくんを見てびっくりした。最後の教壇のシーン、あんなふうに綺麗に涙を流すしょうくんを見てびっくりした。誤解を恐れずに言うと、わたしはしょうくんのお芝居をうまいとは思わない。しょうくんがお芝居に苦手意識を持っているのと同じ感覚で、わたしもしょうくんのお芝居を見てる*1。だけど、まっすぐな白濱先生としょうくんのまっすぐさが重なって見えたとき、努力が才能を凌駕するのがこの目ではっきり見えた。しょうくん、わたしはしょうくんが演じる白濱先生、すごく好きだったよ。
個人的には、知るということの喜びに改めて気付かされたドラマでもありました。情報社会のなかで、気付かないうちに知ることに慣れてしまった自分。いつでも知れるからといって、せっかく教えてくれる場があるにも関わらず知ろうとしない自分。これじゃあの戦争孤児に申し訳ないね。もっと、知れる喜びを大事にしよう。



第二夜の時代は、ある意味わたしにはいちばん馴染みのない時代なんだけど、後藤先生みたいな先生がいたらなあとぼんやり思いました。悪いことをしたときには、殴って痛みを教えてくれる。いいことをしたときには、抱きしめて温もりを教えてくれる。本気で怒られることがないと、本気で褒めてもらってることにも気付けないのよね。私の弟の学校にはいまでも体罰をする先生がいるみたいなんだけど、弟はその先生のことを怖いとは言っても嫌いとは言ったことない。それはなぜかと言うと、授業内容がとても良くて、正しいところで怒るからなんだって。そういう弟の話を聞いている親も、その体罰先生のことはむしろ信頼してるように思うよ。全身全霊で怒ってくれて、全身全霊で褒めてくれる先生。わたしも出会いたかったな。


第三夜を見ていて、高校の卒業式の日の最後のHRでわたしたちの前で大泣きしてくれた先生のことを思い出した。震災の影響で、例年通りの卒業式は出来なかったの。それが一年経ったいまでも心残りなんだけど、第三夜を見たときなぜか初めて心の底から「ああ、卒業式出来てよかったなあ」って思えた。お世話になった担任の先生に、泣きながら見送ってもらえて本当に良かった。あとね、夢ってなんでもいいんだって思えて泣いた。こんなわたしでも、これまでたくさんの夢を叶えてきたんだってことに気付いたよ。



3夜どれも見れて良かった。わたしの心に残る作品になりました。ありがとう。

*1:それは決してしょうくんのお芝居が苦手という意味ではない